日帰り東京
朝、5時に目が覚めたので東京へ行きました。
前からどうしようかと迷っていたのです。近藤先生の文化講座が千石図書館であるのでよかったらと誘われていて。仕事も忙しいし、日帰りしかできないなあと。
いつもは飛行機で行っていましたが、新幹線で行くのもいいわあ。本が読めるし、丸一日遊べました。
7時過ぎに倉敷駅をでて、東京駅に着いたのは11時前。お土産物屋や本屋を物色して外に出るといい天気。赤煉瓦の美しい駅です。皇居周りをちょこっと散歩。
パワースポットです、皇居は。善き人たちが住んでいるのです。
2時からの講座にあわせて移動。初めて訪れた千石の街は普通の街でした。
近藤先生は体調が悪いらしく、階段も辛そうでした。しかし、お話はやっぱり面白。い。1時間半の話は半分以上は知っている話でしたが何度聞いても面白い。また通信を書かなきゃ。
講座の後、先生とお茶しました。しかもパレスホテルのラウンジで。1,300円のコーヒーご馳走になって。ハイソ。
ああ、楽しかった。6時過ぎの新幹線に乗って帰りました。
東京駅の地下街で素敵な時計を買いました。18,000円也。
駅弁買って食べました。11時に我が家についてすぐ寝ました。充実の一日。やっぱり東京楽しい。近藤先生のお話が聞けて嬉しい。有難や有難や。
昭和
姪っ子が、自分の母親(私の妹)の子供の頃の写真が見たいと行っていたので、探してみた。あった。いとこが集合した写真。
高校生になった姪っ子は、自分の母親の子供時代を見て、自分にそっくりなことを発見し「将来はああなるのか、、、」とつぶやいた。
十代二十代の頃の私を見て「なにがあったん?」と。は?なにか不思議ですか?まあ、今より20キロばかり痩せてましたけれど。別に何もありませんよ。自然の成り行きですけど?
昭和のにおいがプンプンする。私の父は長男だったし、祖母がいたので正月やお盆には本家である我が家に沢山の親戚が集っていた。
年末に親戚総出で餅つきをした。男衆がぺったんぺったんついて、女たちは臼の中の餅を返したりもち米を炊いたり餅を揉んだりしていた。子供達も餅を揉んだものだ。初めは下手だったけれども長ずるにつれて上手になっていった。
薄暗く寒い土間のような場所でオレンジ色の電球をつけて作業をしていた。もち米が炊き上がるにおい、蒸気、掛け声、もうすぐ正月が来るワクワク感とあいまって忘れられないひとコマだ。
この写真は服装からして正月だろう。オシャレをしている子もいる。左端のあっちゃんは、母親も本人もオシャレだった。それぞれにしあわせな子供時代を過ごした。祖母は私が大学生の時に亡くなった。そうするとだんだん、親戚が集まる回数も減って来た。多分20年余り我が家に集まっていたが、私が社会人になった頃は、いとこ達が集まることもなくなってきた。
そんないとこ達も今では母親父親になり、それぞれの家庭を持っている。世代はすっかり代わり、いとこ達が集まるのを眺める立場になっている。
私はそういう母の立場にはなれなかったけれど、十分幸せだ。妹が産んでくれたので両親は孫を見ることもできたし。ありがたい。
幸せをもらって生きてきたから、次の世代にちゃんと幸せを伝えたいと思う。そして両親に返していくことも。
ヨイトマケの唄
先日、NHKの生歌番組で石川さゆりが歌っていた「ヨイトマケの唄」。聞き惚れた。
祖母は石川さゆりが大好きだった。津軽海峡冬景色を歌っている画面を見ながら私に似ていると言ってくれていた。私が大学生の時に60代初めに亡くなった。直腸ガンだった。
祖母は夫を戦争で亡くして、女手一つで五人の子を育てた。工事現場で土方をすることもあった。あの時代は本当に女でも土方をしていた。そんな祖母を当時はどう思っていたのか。今は本当に誇らしく思う。
ガンになっても治ることを信じてた。我が家に続く登り坂を登ってリハビリをしていた。百メートルほどの坂道は普段なら1分で登れるが、トボトボと杖をつきながら30分かけて登っていた。
この頃のニュース
アメフトのニュースは気になった。
なぜにあんなプレーができるのか。相手の選手生命を奪うほどのラフプレーが。
監督からの指令だったとか、監督は言っていないとか、どの言い分が本当なのか、解釈の違いなのかわからない。
こういうことはよくある。どちらも自分に都合のいいように解釈すると、どこまでが本当なのかわからなくなってしまう。
なにが正しいか、どうするべきか、とっさに判断して行動することは難しい。自分の中に確かな物差しを持ちたい。